日暮れ、道遠し

つくばで日本語教育をやっている大学院生の、見たこと聞いたこと考えたことなどについて。

教師の「わかりません」と「誠実さ」

最近、日本語の授業を見学させてもらっている。そんな中で、「おおっ」というやり取り(と言うか、先生の発言?行動?)があった。

初級の授業。クラスのサイズは小さめ。自分は教室の隅っこで椅子に座って、ノートに「何分頃にどういう活動をして、先生はこんな風に進めていた」みたいなことを書き留めまくっていた。フィールドワークに近い(自分の授業見学はだいたい、そんな感じ)。

学生から、ある質問が挙がった。授業の流れで出てきたとある2つの基礎語彙の差異についての質問。「まあ同じです」でも良さそうだが、自分でもなんとか答えられるか?でも、語源とか使われ方とかイメージとか色々絡んで少し長く・ややこしくなりそうだな……などなど考えていたら

 

「わかりません」

 

と、先生が言った。ばっさり。

尋ねた学生は笑う。授業は本筋に戻る。

 

びっくりした。先生が「わかりません」!

 

びっくりしたあとで、考えた。自分はなんでびっくりしたんだろうか。

やはり、まず反応したのは自分の中の〈「先生」=「モノを知っているべき」〉という価値観だろう。最近は〈「先生」=「すべてを教える存在」〉ではないという考え方が広まってきていることは分かっているし、〈というか必要なのは「先生」なのか?〉という問いも出てきているのは分かっている。これは、アメリカでも散々考えさせられたことだ。分かっているつもりではあったが、それでもやっぱりそういう価値観から抜けきってはいないんだな、と再確認できた。

 

そんな〈「先生」とは〉みたいなことは一旦置いておいて、ではなんで先生は「わかりません」を(意識的にしろ、無意識的にしろ)選んだのか?「わかりません」はどのような効果を持つのか?と、授業を進める上での「わかりません」の役割を考えてみた。

 

 

先生の返しは気持ちいいくらいさっぱりしたものだった。「えー、いや、うーん、、」みたいな余計なものもなく、「わかりません」。

学生から笑いは起きた。「いや、わからんのかい」みたいな。でも、その後それについて触れられることはまったくなかった。水にわたあめを突っ込んだみたいに、さらっと消えた。

それが、「わかりません」の効果だったんじゃないだろうか。

「わかりません」の前後にあれやこれやを載せたりぶら下げたりして話題として大きくなると、「ネイティヴにとってもどうやら違いがあって大事なことのようだが、でもこの先生はここで教えてくれないんだな」となってしまう。「どうも大事らしいぞ」というもやっとした印象だけが残る。学習者によっては「どうも大事だったらしいが、この先生はそれを教えられないんだな」となる可能性だってある。沽券に関わる。

そうではなく「わかりません」の一言で終わりにすることで、「それについて考える必要はない」と、暗示的にその問題の(少なくとも現時点における)必要性を否定することができる。学習者に余計な印象を与えることもないし、その授業における本当に大事な内容に集中させることができる。「わかりません」と切り捨てることには、そういう役割があったのではないだろうか。

ただ、リスクのある行動でもある。上述の「この先生は『先生』なのに知らないんだな」という印象にも繋がりかねない。今回は大学で開講されている授業だったが、これが1対1のオンラインレッスンだったらどうだっただろうか。もちろん内容や進め方などにもよるとは思うが、せっかくサシで教えてもらっているのに自分の質問を「わかりません」で切り捨てられて終わり、となると、おいおい……となる可能性がある。「この先生はダメだ」と、先生が切り捨てられることにだってなるかもしれない。

 

ここで考えたのが、教師の「誠実な対応」について。

自分は、どちらかと言うと、言葉を尽くし、説明を尽くそうとするタイプ。「本当だ-、うーん、確かに違うよね、でも、ちょっと待ってね、うーん……」とか言って、解説を絞り出す。もしかしたら、「宿題にさせてください」とか言うかもしれない。

それは悪いことではないだろう。教師が学習者の知識欲・好奇心に対し誠実であることは、よいことだとは思う。しかし「誠実さ」のために授業の主目的が達成されなかったら本末転倒だ。「学習者に対して誠実であろうとすること」は、学習者のためであって、教師のためではない。

あと、これは個人的な感覚なのだが、「宿題にさせてください」なんて言って次回の授業で「整理してきました!」なんて言っても、学生の方が覚えているだろうか?ということ。「そんな質問したっけ?」となるんじゃないだろうか(もちろん「何でも吸収したい!」という非常に貪欲な学習者もいるとは思うが)。授業の本筋から外れた質問なら、尚更。というか本筋についての質問(中心として教えられる文法事項とか)だったらはじめからきちんと答えられるべきだし……。

授業の流れによってはそういった「誠実さ」を否定し、「わかりません」を選択する意味もある。そのためには、その授業で何を・どのくらい教えなければならないか。その上で、その情報はどれほどの重要性を持つのか。そういうことをきちんと把握していなければいけない。もちろんその先生があの瞬間にしっかり計算して出したわけではないだろう。しかし、授業後には何を・どのくらい教えるか、きちんと考えることの大事さについて話してくださった。授業内容・教え方についてのきちんとした思想があり、その上での(自動化された)行動があったということだ。プロはすごい。

 

もちろん、この記事は「こうあるべき!」という話がしたかったわけではない。上述した通り、学生の好奇心に誠実であることも教師として大切な要素であると思うし、自分もどちらかと言うと「言葉を尽くす」サイドだとは思う。

ただ、「言葉を尽くす」だけが教師としてあるべき「誠実な」姿であるというわけでもなく、様々な状況を見極めた上で「わかりません」が選択できるのも、授業内容をしっかりと把握している、ある意味で「誠実な」姿なんだなと惚れ惚れしてしまった、という話でした。カッコが多い。

 

ついでに言っておくと、その先生の授業はピンと空気が張り詰めた、緊張した授業というわけでもない。〈「リラックスしてない」≠「『無駄』がない」〉なんだな、ということも、見学を続けている中でいつも実感させられている。無駄ばかりの自分にとってはそれだけで毎回たくさんのことを学べている気分である(気分だけでなく、本当にきちんと学べていないといけないんだけど)。ありがたい。ありがたい。