ろんせん、成らず+振り返り
こちらの記事。
ダメでした。ざんねん。
厳密にダメだったと言うよりは、途中で記録をつけていくのが面倒になって立ち消えてしまったというのが正直なところです。ちゃんちゃん。実のところ、年の中ごろには「これちょっとダメかもなあ」というのを思っていました。
きちっとスプレッドシートで著者・発行年・タイトル・掲載誌情報・感想・誤字脱字の有無など丁寧につけていこうとしたのが間違いでした。もりもり読むぞ! はいいとして、もりもり記録つけるぞ! は(ケツイを決めたはずの)自分には合いませんでした。色々ぐわーっと読んでも、それを振り返って記していく、というのがどうにもダメで、一度記録が飛ぶとその後も似たようにずる、ずる、と……。途中でシンプルスタイルの記録に変えたんですが、それはそれで、はじめからやっていたフォーマットが崩れてしまったことで糸が切れた感覚があり。「著者名と発行年と感想だけにする」とか、「『よんだマーク』を物理的なノートにつけていくスタイルにする」とか「読んだ論文をフォルダに突っ込むだけにする」とか、徹底的に手間を減らすべきでした。読むには読んでもその記録が億劫になり、「ちゃんとできてないなあ」という気持ちだけが澱として溜まっていくというよくないスパイラルに陥っていたのでした。
あと、1000本のためにはあらゆるところからあらゆる論文を引っ張ってこなければいけないんですが、そんなふうにあらゆる論文をごりごり読むぞ(そしてそれをきちんと記録するぞ)! というのは修士の頃とかせめてD1の頃がよかったですね。色々と方向性が定まってきて自分のアウトプットに軸足を移すべき(インプットの重要性は否定しませんが)D2にやることではなかった……。実際、なんでもありのインプットの前に自分のこしらえるものやその準備のための作業があって、それに関連するものをあらためて時間かけて読む、というのに結構時間を取られていた、というのもありました。それでも色々読まないと! という発破がけにはよかったし、実際なんとかかき集めて読もうとした分、平常通りの自分の研究やぼんやりとした興味関心の赴くままだと手は出さなかっただろうものにも手を出せてそれはそれでよかったのですが。しかしどこかで「記録付け」がプレッシャーというかストレスになっていたなーという感覚もまたあります。
SNSなどで意気軒昂にやっている人間がみんながみんな華麗に目標達成してゆくばかりではないのだ、という、なんとも不名誉な表象になってしまいました。
リベンジこそしませんが、上に書いたように「意識して色々読もう! としてみるのは結構(どころかかなり)いい」ということは身に沁みてよくわかりました。偶然にも読んだ論文に関連した話を振られたり耳や目にして、「そういう研究ありますよ~」と応じる機会も一度や二度ならずありました。ふと目にした学会発表の内容に「そういう論文あったなあ」と感じられる機会もあったりと、間違いなく自分の感覚が磨かれた気はします。これからも、明確な対外的目標こそ立てないものの、意識的に目を広める努力はしていきたいですね。
というわけで22年の一大目標はなんだか残念な感じに終わってしまいました。来年は「身の程を知り、身の程を伸ばす」あたりの目標がいいのかな、など考えています。個人を超えて世界的にも騒がしく哀しい年でしたが、来年は誰にとってもマシな年になりますように……。
「論文1000本読む」やります
「『優秀なのにがんばりやさん』なんじゃなくて、
『がんばりやさんだから優秀』なんです」
最近見た映画のそんな台詞が、じーんと。それはもうドラえもんのジーンマイクのように、じーんときてしまって。じーんと来たその心のまま我が身を振り返ってあまりのどうしようもなさにこれではいけない、と一念発起した次第です。
んで、何をやることにしたかと言うと、タイトルの通り。論文を1000本読んでみよう、ということにしました。日本語教育に関わりのあるものを中心に。期限は今度の年の終わりまで。1年間です。
ただ自分の気持ちをエイヤと据え直した気になったところで、三が日の空気の中に霧消してしまうのが関の山でしょう。それよりは、ここ(ある程度の同業者の目にある程度触れるところ)でこんな風に一発宣言でもしておく方が、逃げ道が潰せるかなと思った所存。みんなだいすき読書猿氏のゲートキーパーの技法を参考にしました。優秀になれるかどうかはわからない。ただ、それをやらなかった時とは違う景色が見えるんじゃないかと思っています。それだけ。
ゲートキーパーを参考にするとは言いましたが、明確な罰は作りません。「できなかったんだな」と衆目に晒されることくらいでしょうか。それで動じないようならはいそれまでよ、というところです。達成できたらささやかに自分を褒めようと思います。
具体的にどうしていくかと言うと、読んだらTwitter(@PaPio1130)にメモを積んでいき、ここに記録をつけていく。それだけ。人に見せることが目的なのではない、けれどこんな風に人目に晒したところでやるのが大事だろうと思いますので。
以下、自分との脳内会話。
量より質だろう
ごもっともです。ただ、「量より質だからね!」と鼻息荒くしっかり読もうとしてすぐに精も根もあっさりと使い果たして、というのがこれまでのお決まりパターンでしたから。質も大事だと分かっているけれど、その上で量にフォーカスを当てたチャレンジです。
人にやりますやります言わないで黙ってやれ
ごもっともです。でも、黙ってやると、黙ってやめることも容易なわけで。上記の通りその辺の逃げ道を、完全に潰すわけではないが、監視の目を増やしてなんとなく前に進むしか無いようにしているというカラクリです。
後期学生が1000本とかなめてんのか10000本読め
ごもっともです(?)。1000本という数がどのくらい妥当なものかどうかもよく分かりません。その辺の勘所を養う機会にもしたい。あっさり「俺、なんかやっちゃいました?」みたいに達成できてもそれはそれで面白そうですよね(それはない)。
できるの?
わかりません。でも、できたら1コンテンツくらいにはなるかなと思う。そうして自分をコンテンツ化して逃げられなくするのが大きな狙いだったりするわけで……。
そんなところで。
いい加減「気持ちじゃ人は変わらない」ことに気付きかけてきた限界大学院生が、皆様の力をお借りして組んだ仕組みを使って一歩だけでも前に進んでみよう、というチャレンジです。うまくいくかどうかは分かりませんが、やるしかない……。
「手足まとい」でもOK……でしょうか?
最近、社会人相手のレッスンもやっています。
その中で出てきたのが「手足まとい」という言葉。仕事の付き合いがある人に送ったメールをチェックしてください~と言われて見ていたら書いてありました。
いつもなら軽く辞書なりネットなりで確認してからリアクションを返すんですが、今回はさらりと「これは『足手まとい』ですね~」と返しました。なるほどこういう誤用もあるんだな~など思いつつ。
と思っていたらそれに帰ってきたコメントが
「『手足まとい』も辞書で見たんですけどダメなんでしょうか?」
?!
丁寧にweb辞書のURLも教えていただいたので確認しました。
てあし‐まとい〔‐まとひ〕【手足×纏い】 の解説
「足手 (あして) 纏い」に同じ。「何かにつけて―になって」〈白鳥・牛部屋の臭ひ〉- goo辞書
なんとまあ。
母語話者の感覚というのは確かに強いけれど、万能ではないということを改めて思い知らされたできごとでした。
……
と、ここで終わったら「そそっかしいひぐれさんエピソード」なんですが。
では「『手足まとい』もありましたか~すいませんw辞書に載ってるならそれでもOKです!」でいいんでしょうか。どうでしょうか。
実際に学習者(ネイティヴではないかなという人)が「手足まとい」という語を使ったら、周りの日本語母語話者からどういう反応を受けるでしょうか。「へえそういう言い方もあるんだ~」と好意的に受け取ってくれるでしょうか。それとも上に挙げたひぐれさんのように「それは『足手まとい』ですよ~」と訂正してくれるでしょうか。
こればかりは分かりません。むろん、「手足まとい」のバリエーションをご存じの方も少なからずいらっしゃることでしょう。ただ、「『足手まとい』の方が一般的に使われているだろう」という感覚は概ね共有されているのではないでしょうか。
ちなみにBCCWJで検索をかけたところ、「足手」+「まとい」で76件、「手足」+「まとい」で1件(98年国会会議録)でした。
さて、日本語教育などにあんまり関わりのない日本語母語話者が、非母語話者の使う、存在はしているがほとんど聞く機会はない「手足まとい」を聞いたら。やっぱり、「〇〇さん、それは『足手まとい』だよw」となるのではないでしょうか。というか、そういう指摘を直接する人もそんなにいないのでは。「あ~『足手まとい』って書きたかったけど間違えちゃったんだな」と、特に表立って指摘はされず、終わり。
はじめに挙げた方が「できるだけ、『非母語話者だもんね仕方ないよね』と思われないようになりたい」と思ってらっしゃる方だから自分もそういうマインド強めになっているのかもしれません。
ただ、誰か(学習者)が日本語を使って人間関係を作ったり、保ったり、深めたりしてゆく、そのためのサポーターとして存在する、というのは今の”日本語教師”のあり方として1つ、あるのではないでしょうか。そしてその中では、「辞書的に正しい(と言える)からいいか!」だけではなく、教えた/取り上げた日本語がどのように使われ、周りの母語話者(だけではないけど)の中でどのような反応を生む可能性があるか、そこまで考えていかなければいけないのではないでしょうか。
「手足まとい」を知らなかった人間の必死の言い訳と言ってしまえばそれまでですが。それでも、「正しさ」よりも「この社会の中でのどのような言語使用に結びついてゆくのか」というのも大事なんじゃないの、というおはなしでした。おしまい。
人生で初めて「殲滅」と書いた
好きに勝るものなしというお話です。(おひさしぶりです)
最近、漫画に興味のある学習者さんとの1対1レッスンを担当しています。先日のレッスンで話題に上がったのがこの漫画。機会あって目にして、なんだか気になったんですが、とのこと。
本日12日発売のガンガンさんにて告知ちょこっと載せて頂いております。
— 金井千咲貴 (@chisakitamago) 2021年4月12日
「僕の呪いの吸血姫」
タイトルをギリギリまで悩み、皆様のご意見を参考に頭を抱えながら決めさせていただきました。
お力をかしていただきありがとうございます。#僕の呪いの吸血姫https://t.co/BLMZOgvzI2 pic.twitter.com/PHOHpAhztC
『僕の呪いの吸血姫』金井千咲貴
血と呪いと恋にまみれた 吸血鬼殲滅譚。
学習者氏の日本語レベルはN4に受かるかな、というところです。
とはいえこちらの広告、リンク先を開いて見ていただければ分かる通り、まあN4には出てこないだろうなという単語に表現、言葉遊び。
タイトルからして「僕の」は分かったとして「呪い」ってなんだ?「吸血鬼」ではなく「吸血姫」???「血」と「呪い」と「恋」に?「まみれる」?????
とはいえ彼は見るからに興味津々、ここに書いてあるものは何でも知りたい!という様子でしたのでこちらも頭をフル回転。
まずは「吸血姫」。日本語にはもともと「吸血鬼」という言葉があってね……とホワイトボードに書いてそれぞれの漢字の意味を確認。
「吸」はストローのささったグラスの絵を描いて、こういう感じでちゅうっと「すう」こと。「血」は、あ、わかりますか。そうですか。「で、次のこの漢字(鬼)の意味は……」「きめつ!」「そう!」さすがです。
(うまくハマれば)好き同士繋がりあう知識は強いし深い。「呪い」だってGoogle画像検索でもののけ姫のアシタカの画像を見せてあげたら「あぁ~」となっていました。
ただし「こういった目に見えるものだけではなくて、目に見えないけれど相手によくないことをもたらすものもあって……」「『DEATH NOTE』は呪いですか?」うーむ。
そんな流れでホワイトボードに生まれてはじめて書いたのが「殲滅」でした。せんめつ。ソラで書けますか?自分は一旦パワポに入力して拡大して写しました……。「韮」みたいなところは中に3本。ちなみに「殲」の話をした後に「滅」に移ろうとしたところでも「きめつ!」。つよい。
「本当に学習者に『この語彙/表現が必要だ!』という思いが芽生えたら、どんなことばだってすぐさま自分のものにする」ということは、これまでも様々なところで教え込まれてきました。社会問題に強い興味関心をもっている学習者であれば「貧困世帯」という言葉なんて「収入」や「食費」などの言葉とともにあっという間に使いこなすし、初級の初級の段階で「水球」という言葉をまず覚えた学習者の姿も見てきました。
今回のレッスンでも、あっという間にこの広告の内容を(精確にどのくらいかはわかりませんが)分かってしまったようでした。もちろんこの広告自体への興味もあるし、『鬼滅』や『もののけ姫』の知識がうまく機能したように、溜め込んできた関連知識の助けの大きさも無視できません。
こちら(「教師」側)の頭の中に教えるものが全部あって、それを学習者に「与える」時代ではないんだな、ということをあらためて感じさせられた出来事でした。
ちなみに、最後の方でノートを見せてもらったんですが、「殲滅譚」は僕がホワイトボードに書いたものよりよっぽど丁寧に書いてありました。ちゃんちゃん。
ミライがおウチにやってきた ~Oculus Quest 2 を買いました~
「味蕾」は英語でtaste budsと言うんだというのを先日知りました。
が、今日はミライはミライでも「未来」のはなしです。ふゅーちゃー。
表題どおり、ずっと気になっていたVR機器を買いました。
VRとは?という方はこちらを。
これから間違いなく盛り上がっていくだろう仮想現実の世界、これは体験しておかねばなるまい、しかし機材がなあ……と悶々としていたところに、近々発売されるOculus Quest 2が性能の割にはお買い得らしいぞという情報が飛び込んできたのが数ヶ月前のこと。たまらず貯金を突っ込みました。
そんなこんなで届いたOculus Quest 2。細かい解説は詳しいサイトがあれこれとありますますので、そのあたりはそちらに譲り。個人的に強調したい感想を中心にいきます。
Oculus Quest 2とは?というのはこのあたりで。
没入感がスゴい
これまで、360°動画を見るために携帯を突っ込む用の1,000円ゴーグルは使ったことがありました。左右上下に首を振るとそっちが見える、というものですが、それだって十分すごかった。
今回Oqulus Quest 2で加わったのは奥行きの軸。要は、「近づいたり遠ざかったり」ができる、というもの。
目の前に何かがあって、「ん?なんだ?」と一歩踏み出したり体を前のめりにするとそれに近づくことができる。この感覚がものすごくて、予想していたよりもはるかに「別の、その世界」にいる気がします。
ただ何かを見ているのではなくて、その世界の中にいる感じ。
もちろん肉体的には狭いアパートにいるので100%自由に動けるわけではないのですが、動ける範囲では本当に自由です。
ちなみに、現実世界のモノたちにぶつからないように、使う都度動く範囲を指定できます。VRゴーグルを着けたまま、内蔵しているカメラで現実世界を見て、コントローラーで「この範囲で動くー」と指定するという流れです。なかなかすごい。
自分が別の世界にいるという感覚。というか、そこにいるというだけであって、「別だ」という感覚すら生まれません。ここまでとは思わなかった。
そしてその不思議なところが、絵のリアルさが問題なのではないということ。3Dアニメーションと言って、縦横奥行きのあるアニメーション作品の中でそれが鑑賞できるというアプリがあるのですが、その絵って、今どきのPCゲームとかPS5の映像に比べて、全然「リアル」じゃないんですよね。ベタっと書いてみましたみたいな質感だったり、雑なスケッチ程度のものだったりする。
これはだいぶ細かく書き込んであります。けど、全然「普通の世界」じゃないですよね。
でも、上述の「自分がそこにいる」という感覚が勝つんです。本当に、高いところにいるアニメーションだと足がすくむし、モノが自分に近づいてきて、ぶつかると(映像の中では自分の場所をすり抜ける)、何かが自分の身体にぶつかったり通り抜けたような違和感がある。上の例だと、自分がこの街中に立っているような感覚があって、この色々な生き物もいるように感じる。すさまじいです。
「3Dのものを見る」経験なのではなく、「別世界に行く」経験。『異世界転送の用意はいいか』とはよくつけたタイトルだなあと思ってしまいました。
コントローラーがスゴい
コントローラーを握るとこんなかんじ。謎のでっかい輪っかの機能はよく分かりません。中に何かがあるというよりは、ボタンとか手が周りのものにぶつかるのを防ぐ役目ではないでしょうか。
それはそうとこのコントローラー、「使い心地が素晴らしい」ということは前機種Oculus Questのときから言われていましたが、その時はただ握り心地がいいのかな?程度に考えていました。
そうではなかった。
握ったり掴んだりが、できる!これがすごい。
中指が触れているトリガー。これを押すのが握る動作のスイッチで、これをぎゅっとすると握りこぶしができたり、掴めるモノがあればそれを掴んだりできます。銃とか。
これがもう本当にものすごくて。本当に何かを握っている気分になるんです。傍目にはコントローラーは握りっぱなしなはずなのに。見事に脳が騙されている。
理由として1. トリガーの軽さ と 2. バーチャルハンドの存在 かな、と思いました。
1. トリガーの軽さ なんですが、このトリガー、ものすごく軽いんですよ。ふわっと押せる。バネの反発も少ない。「押すもの」と考えると押しがいがないスイッチなんですが、自然な手の動きには不要なんですよね、反発って。それゆえの存在感のなさなのかなと思います。だから、仮想世界で指を動かした時に現実からの干渉がない。こういうズレの解消が大事なんでしょうね。
そんで、 2. バーチャルハンドの存在。VR世界の中では、手首から先が3Dモデルで見えています。コントローラーの位置を読みこんで「ここに手があるよね」という位置に表示されるハンドは、実際の自分の手の動きに合わせて動きます。手を挙げると挙がるし、後ろに回せば後ろに行く。そこでコントローラーのトリガーを押して、上述の「握りこぶしを作る」動作をすると、その手がぎゅっとする。実際は中指を動かしてトリガーを押しただけなのに、それはもう見事に脳が騙されます。ぎゅっとしたぞ!と。ぎゅっとする他にも、バーチャルハンドは親指の動きや人差し指の動きにも追従します。なぜか。薬指・小指も中指に連動するんですが、こやつらは現実世界での役割はまったくなく、ただコントローラーを握っているだけなので、違和感も何もという感覚です。不思議。
ともかくもこのようにして、身体への違和感を減らし、その一方で視覚情報を盛ることで、脳を精一杯騙せているわけです。にくいぜ。
いくつかゲームの体験版などで遊んだりもしましたが、物を掴む動作などもそれはもう自然にできる。びっくりするくらい掴んでいる。掴んでないのに、掴んでいる。
と、頑張って言葉でまとめてみましたが(後半はメタ要素が多めになりましたが)、本当にVR体験の感想を伝えるのは言葉では難しい。
この記事を読んでいるあなた!ちょっと立ち上がって歩いてみて!
歩いてみて、どうだった?教えて!
そんな感じです。「どうだったも何も……」となってしまう。これからはむしろVR世界を語るための言葉がどんどん生まれてゆくのかな、という思いすらあります。
VR世界の経験は、「みる経験」ではなく「いる経験」だな、というのがひとこと浮かんだ印象です。もしくはその中で「する経験」。すばらしくすばらしいのですが、これにのめりこみすぎると現実世界とのバランスが崩れそうで薄ら寒いほどです。帰ってこれる程度に楽しんでいきたいですね……
雑なレビューですが、色々試してみた中で書きたいことはまだまだあります。引き続き修論の合間を縫って書いていきたい。乞うご期待です