日暮れ、道遠し

つくばで日本語教育をやっている大学院生の、見たこと聞いたこと考えたことなどについて。

インターネットミームと学習者 ~「淫夢ネタ」をめぐって~

インターネット、便利ですよね。

あらゆるものに、すぐに繋がれる。教室・教科書を飛び出して、生の学習言語文化にどんどん繋がっていけるというのは、間違いなく現代の言語学習における利点の1つです。

 

ただその一方で、案外すぐ近くにとんでもないものが潜んでいる。今回はそんな話です。

 

淫夢ネタ」というものを聞いたことがある、という方はどれくらいいらっしゃるでしょうか。このブログを読んでくださっている方はおそらく日本語教育関連の方が多いと思いますが、業界の中で聞くことはまったくないでしょう。自分は趣味でニコニコ動画を覗いたりtwitterを見たりしていますが、そのようなサブカル界隈でここ数年の間によく目にするようになったものです。

淫夢」とはゲイ向けアダルトビデオ作品のタイトル(の一部)であり、その中のセリフや登場人物など、関連要素が面白おかしく消費されているのが「淫夢ネタ」です。

淫夢」ネタの由来・問題点について詳細にまとめてくださっているnoteに、こちらがあります(紹介・引用の許可は得ています)。そもそもの出自・現状を含めた問題点の把握には現時点で最良の記事かと思われます。

note.com

 
この記事では、淫夢ネタそれ自体の問題点提起については行いません(そのあたりの議論は上のnoteへ)。

まったく知らなかった方にとっては「本当にそんなものが?」というレベルの話だろうとは思いますが、現状どうしようもないほどに広まっています。「あっ……(察し)」や「不幸にも黒塗りの高級車に・・・」に始まる定型ジョークなど、目・耳にしたことがある方もいるのではないでしょうか。また、「淫夢」以外のゲイAV作品・コンテンツから生まれたインターネットミームもあります。それらも本記事では「淫夢ネタ」として取り扱います。

さて。この記事はそういったネットミームに対して「やめようよ!」という記事ではありません(そのような意見に対しては賛同しますが)。というのも、上記の通り、すでに広まりすぎているから。上ではサブカル界隈とは言いましたが、現状、ものによっては「ゲイAV由来のことば」という要素はかなり薄れ、一般的に使われるレベルにあるものも存在するくらいです。とにかくまず、そのようなものが「ある」ということを知ってほしい、そして、「ある」上で我々日本語教師はそれをどう扱ったらいいか考える契機にしてほしい、そのような意図でこの記事を書いています。

 そもそも”見えない”「淫夢ネタ」

淫夢ネタ」にまつわる問題を難しくする原因の1つに、それら淫夢ネタ」の表現が表面的にはあまりにも「普通」で、元ネタ(があること)に知らないと気づけないという点があります(逆に、そのような汎用性の高さがここまでの広がりを見せるに至った原因であるとも言えます)。

たとえば、何かに気付いた時の「あっ(察し)」や、驚いた時の「ファッ!?」、何かに成功した時の「やったぜ。」など。このレベルのものだとtwitterYouTubeで、ゲイAVという文脈無しに使われているのを見た・聞いたという人もいるのではないでしょうか。

場合によっては、学習者がそれと知らず「インターネットでよく使われているから」という理由でそのような表現を使うこともあり得るでしょう。けれど、これらの表現にしても、まだ元ネタが近くにあるのは事実です。元ネタとの近さゆえに、淫夢ネタを使う=元ネタの存在を知っていると認識されることもある。

たとえば、海外の大学で、自分の大学の紹介ビデオを日本語で作成し、交流大学の日本人学生に見てもらうという活動があるとします。そんな中で、学習者としてはネットで見かけた単なる「流行語」だと思って使ったミーム淫夢ネタだった、ということも十分起こり得るでしょう。もちろん日本人側だって気づかない場合もあれば、同じ「流行語だよね」という程度の認識止まりかもしれません。一方で、もしも日本人側がそのようなミームを快く思わない人だったら。発表を行った学生が「淫夢ネタを面白がる人」というマイナスの認識を受ける可能性だってあります。

学生がインターネットで情報収集・交流を広げて、その過程で自然な日本語を身につけてゆくことは本来非常に喜ばしいことです。また、本来ミームや流行語には、それを使う人達の仲間意識的な結束を強めるはたらきもあります。うまく使えば、コミュニケーションのなかでものすごい効果を発揮します。

ただし、ミームの中には一般的に・おおっぴらに使うには不適切なものがあり、使う際にはどのように受け取られるか注意すべきである、程度のことは周知させておくべきなのではないのでしょうか。 もちろん教師側に「これはね……」と注意できる程度の情報量があるに越したことはないですが、日頃そういう文化に触れていない教師がこれらミーム全てを把握できるかと言うと、間違いなく不可能でしょう。上述のように分かりにくいミームもありますし、膨大な量があるところに、日々新たなネタが発掘されては新規のミームとして生まれ出ているのが現状です。よっぽど日常的に・広範囲にアンテナを張っておかないと、全てを把握するのは不可能です。

ただし、そもそも「そのようなものがあること」自体を知っているか否かには大きな隔たりがあると言えます。

ミームは全部ダメなのか?

また、「ミームだから全部ダメ」かというと、そういうわけでもありません。一口にミームと言っても、上記の淫夢ネタのような性的なコンテンツから生じたものもあれば、そうではないものもあります。

一例を挙げます。「やったぜ。」「やったか!?」について。

「やったぜ。」は、何かに成功した際などに使われるミームですが、これは淫夢とはまた別の性的・過激なコンテンツから取られたミームです(解説ページへのリンク。かなりショッキングな内容ですので閲覧注意です)。

一方で、「やったか!?」というのは、「攻撃後に攻撃を行った側がこれを言うと、攻撃を受けた相手は大体生きている定番のセリフ(ロボットもの・戦闘ものにおける相手の生存フラグ)」として扱われるミームです(解説ページへのリンク)。

表面的には「やったぜ。」と「やったか!?」だけなのに、こんなに違いがあります。前者を使って眉を顰められる可能性は大いにあるものの、後者は、上にも述べましたがうまく使えば誰も傷つけることなく笑いを取れる可能性があります。

「これは『いいミーム』、これは『悪いミーム』」と学習者にひとつひとつ教えることも、また、学習者に「ミームを使う前にはその出自を確認しましょう」と伝えることも現実的ではないかもしれません。ただ、やはりミームや流行語の使用に対しての注意喚起を行うことや、「これはもしかして」と気づくための教師側の感度を上げておくことは肝要でしょう。 

学習者が「巻き込まれる」

また、「淫夢ネタ」には学習者がそれと知らず巻き込まれる可能性もあります。

自分がしばらく前に経験した出来事ですが、ある国の高校生と日本の高校生の交流イベントで、交流企画の1つとして小グループに分かれて色々と写真を撮る、ということがありました。

終わり頃に学生たちが撮ってきた写真を見ている中で、学習者・日本人が揃って淫夢由来のものとして広まっているポーズをとっている写真がありました。どうも、日本人学生が面白がってさせたようです。

ポーズ自体は別に性的な何かを想起させるものでもなく、言い逃れをされたら何も言えません。コンテクスト的なものです。ただ、日本人学生が話しているのを聞くに、明らかにふざけて、「淫夢ネタ」であることは承知の上で、そして相手が知らないことも把握した上で(ここが一番ダメですよね)させていたようでした。その時は、もう撮り直しをさせる時間もなく(幸い、色々ある中の1枚でした)、また、自分がその学生に色々と言える立場でもなく、また、一緒に写っていた2人の学習者は10代の女子で、彼女たちがいる場でその問題性を即座に指摘することもできませんでした。今考えると、何かしらできることはあっただろうと反省しています。 

 おわりに

使われていく中でことばの立ち位置が変わってゆくこともあります。「女子高生」を表す「JK」だって、もともとは援助交際のための隠語だったそうです。そのように、時空的な使用幅が”うすめて”くれる可能性は大いにあります。

ただし、今は上記のような状況。加えて、今後も様々なミームが、様々な形で出てくるのは間違いないでしょう。そのような場面を迎えるにあたって、とにかくそのようなものがあることを知っておく、認識の中に入れておくということは間違いなく必要だろう、そう思って書いた記事でした。

コメント・質問など大歓迎です。
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日本語教師とキャリア ~とあるキャリアの一例と、その弱点(?)~

もうすぐ27さい。高校時代に出会った「日本語教育」に、なんとかまだかじりつけているかな、という感覚があります。

と、しみじみとすることも増えてきた頃合いにこんな記事を読みました(紹介・引用の許可は取得済みです)。

 

shirogb250.com

 

先にあった「日本語教師は大学院に行ったほうがいいか?」という話から、著者のさくまさんが考える「私が20代前半だったら」というシミュレーションがあるわけですが、おおむね自分(ひぐれ)がこれまで辿ってきている道のりで笑ってしまいました。シミュレーションの詳細はさくまさんのブログを見ていただければと思いますが、ざっくり

前提

・学部で日本語教育専攻

日本語教育に関わる進路に進む

流れ

・日本国内の大学院で日本語教育専攻

・公的派遣のポストで海外派遣

・(どこかのタイミングで)日本語教育能力検定試験合格

 

という感じ。

自分は

・学部で日本語教育専攻

日本語教育に関わりたかった

・学部卒業後JF派遣で2年間アメリカ行き

・帰国後に日本語教育専攻で国内大学院へ進学(学部と同じ大学)

・学部在学中に検定試験合格

こんな感じ。

この道を選んできた理由もさくまさんがおっしゃっていることとほとんど同じ(人脈・待遇・ネタ探し・etc.)で、運の要素もかなりあるとはいえ&自分で言うのかという感じですが、そこまで悪い選択をしてきたわけではないという思いもあります。ありますが、同時に「こういう弱点(?)もあるかな」という印象もあり。

と思って反射的にしたためたのが以下から始まる一連のツイートです。続いてます。

  

 

この記事では、上記連投ツイートを補足していく形で、上記のシミュレーションを実践してき(てしまっ)た人間としての覚書を交えつつ「悪くはないんだけどこういう弱点(?)はあるかな」という話を書いていこうと思います。弱点というかただのコンプレックスでは?というところもありますが。「なんとなくわかればいいや」という方はツイートだけでも十分でしょう。

メインターゲットとして日本語教育に興味がある高校生・大学生の方々が進路を考える上での一助になることを目指しますが、「私もそう!」という方にもあるあるネタとして消費していただければ。「えー」というところなどありましたらコメント・ツイートなどでご意見ください。

 

本題。まずこちらのツイートから。

 

①。大学院には入っとく?という話。

さくまさんのブログでは大学院進学→海外派遣という流れでしたが、自分の場合は海外派遣→大学院進学(入学)でした。

自分の参加した海外派遣は7月末から派遣開始で、大学を3月に卒業して4ヶ月強の時間があいていたわけですね。その時間がどうにも絶妙で。自分は大学のある茨城から福岡の実家に戻ってアルバイトをしていました。某石橋タイヤ店のタイヤセールスのお手伝いとか、博多マルイのオープニングスタッフ(することがなかったので倉庫でCEFRの邦訳版を読んでいた)とか。そして渡米、2年後の6月に帰国、10月院試、翌年4月入学。

と書くとうまく進んではいるんですが、もし派遣に落ちてたら、次の応募(または派遣は諦めて大学院受験、または両方)まで1年まるっと空いていたわけです。無職で。

自分がなんで学部→大学院にそのまま進まなかったのかというと、「ネタがなかった」からです。日本語教育に対する漠然とした興味関心はあったものの、修論レベルでも「これが!」というほどの研究テーマがなかった。「とにかく行けばネタは見つかるよ」と言ってくれる方はいらっしゃいますが、いやそこはちゃんと準備して行きたい(というか院試に臨めない)……という気持ちがありストレート進学は断念しました。卒論は卒論で楽しく頑張りましたが、卒論止まりだなという内容でした。 

自分のように背水の陣ならそれもそれでよしですが、ことこういう派遣応募って単純にテストで高得点でパスってわけじゃなく、合格の基準がわからないだけに頑張りにも限界があるんですよね。うまくいったからよかったようなものの、今振り返ってみるとリスクヘッジ的に大学院に進んでおくのはいいんじゃないかと思います。まあ、「無職(フリーター)は絶対ダメなのだ」と言いたいわけではありませんが。その辺はそれぞれの状況・価値観にもよると思います。「履歴書に空白を作るな」とはよく聞きますね。自分はそういうのをあんまり真面目に受け取らないタチですが、そうは問屋がおろさない世情があるのもまた事実。

あと、先に入学しておく点について地味にいいなと思ったのが、派遣が終わって帰国してすぐ学生になれる点。自分は帰国してから大学院入学まで10ヶ月弱ほど間が空いてしまいましたが、派遣期間を休学扱いにしていれば帰国即学生に戻れました。もちろんアルバイトをしつつ自分で勉強して受験・進学、というのも悪くはないと思いますし、逆に戻ってM1の後期となると修論もバタバタ進めることになるのではないでしょうか(もちろん派遣されている間にデータ収集を進めるなどであれば問題はないでしょうが、そのための準備を逆算してしっかりしておく必要があります)。人によってはM1後半以降で就活もあるだろうし。

さらっと「大学院に進むこと」が前提にされていますが、このルートに進むならキャリア的にせめて修士、とはなるんじゃないかなと思います。詳細はまた別の機会にでも。

 

②。国内事情に暗いという話。

これは弱点というよりは「そりゃそうなるよな」という話ですね。日本で日本語教育の話をするとやっぱり国内事情(日本語学校とか)に関することが多く、「日本語教育をずっとやってきました!」と言う割に全然知らないなぁ、というのがなんとなーくコンプレックスというか、やっぱりどこかで一度経験しておくべきか……と思ったり思わなかったり。ただまあ「なければいけない経験」ってわけでもないだろうし、そこはその分自分が見てきた地域についての知識・経験があるからいいかなとは思います。逆にそういう「他の人が知らないこと」で重宝される機会も少なからずあるので、前向きに。

 

 

 

③。「日本語教育」バカという話。

②に近いようでもう少し広く、自分自身に関してかかってくるコンプレックスですね。

大学院では別の専門分野を専攻しながら日本語教育についても学ぼうという方がいらっしゃったりして、そういう人の「別の引き出し」には惚れ惚れします。あと、新卒で普通に就職してというルートもぶった切ってきたので、「会社勤め」の経験がない。ので、いわゆるビジネス日本語というものも自信がない。とはいえ~~~と思って書いたのが次のツイートです。

 

 

虚仮の一念ではありませんが、こういう話については焦ってあれもこれも、となるよりは専門性を上げて対処できる幅を広げようということですね(ちなみに「レベルを上げて物理で殴る」はインターネット慣用句です)。その上で、やっぱり教える相手や教える場、教えた先にどうなるの?というように専門以外の要素も多分に関わってくる世界ですから、専門外の知識に手を広げていくことも大事。そういう意図でした。日本語教育は掘り下げていくと勝手に色々なものが巻き込まれてくるという点で知識の幅を広げやすい分野かなとは思います。その分すぐに迷子になっちゃうというのはありますが。

多少ニッチに振って自分の好きなことを追っていくだけでも、学習者の需要に結びつけば勝ちですよね。そのへんは村上さん《冒険家メソッド」》にも繋がってくるのではないでしょうか。 

 

 

おまけ:日本語教育能力検定試験

日本語教育能力検定試験は学部4年の時に卒論を書く中で受験して取りました。というと優等生ぶっているようでアレですが、専攻で勉強している人にとって学部生の頃って取りやすいような気がします。専攻で勉強してきたから、「あ、あれ講義で聞いたやつ!」 みたいなことばかりです。直接勉強したことでなくても、勉強がしやすい気がする。知識が繋がるノリというか。学部で勉強してきたことの集大成感があって、自分としては割と自然な流れで「取っとくかー」となりました。ただ、取ってしまうと「昔取ったし~」となってしまうので、定期的に受験して知識をきちんと保守・アップデートするのも大事だな、という気もここのところしています。

 

おわりです

書きに書いたり4,000字オーバー。

結局自分で自分をどう納得させるかというか、人によって条件の許す許さないも異なるとは思いますが、絶対の正解も絶対の間違いもない話だとは思います。 「あくまでも個人の感想です」レベルで、大したこと言ってない気もするんですが、自分で自分を振り返っているからそう感じるだけなのかもしれません。さくまさんが上掲記事でおっしゃっているように「『普通のこと』でも意味のある記事」であることを祈っています。

何か質問やコメントなどありましたらtwitterひぐれ (@PaPio1130) | Twitter)かここのコメント欄、もしくは質問箱のリンクを置いておくのでこちらまでどうぞ。

 

peing.net

 

ではでは~~~

 

教科の日本語、説明だけが問題じゃない(みたい)

最近中学生の数学を見てあげる機会が多い。

日本語非ネイティブ、もしくは日本語から離れていた児童生徒にとっての教科学習の中での日本語の難しさというものは本なり論文なり学会発表なりで触れてはいたけれど、実際に支援の現場にいると、様々な難しさが見えてくる。

気付いたことの1つ。どうやらそもそもの概念の説明だけが問題じゃないらしい。

たとえば、中1の「文字式」。100x+200y=3000とか、そういうやつ。

「文字と数字で表した式のこと」という説明の時点で「??」となるだろうことは、まあ、分かる。加えて「文字と数字のかけ算の場合は”×”(かける)を省く」(3×xではなく、3xと書く)とか、そういうルールの説明が日本語として難しいんだろうなということまでくらいは、多分すぐ誰でもピンとくると思う。おそらく母語話者でもみんながみんなすぐ分かるということはないだろう。

ただ、非ネイティブだったり、日本語に馴染みのない生徒にとってはどうやらそれだけじゃなさそうだということに気付いた。

とあるワークブック。基礎の説明のところを「たしかにこの日本語難しいよなあ」と感じつつ、適宜説明をしながら進める。自分が見ている生徒は大体はわかっている人なので、あらためて口頭で確認するくらいで済む。

それでは実践、と、その先の基礎練習・実践練習・発展練習の問題に進むと、そんなに単純な話ではないことが分かった。

 

150円のノートをx冊買った時の代金を文字式に表しなさい。

 

底辺xcm、高さycmの三角形の面積を文字式に表しなさい。

 

時速xkmでy分進んだ時の距離を文字式に表しなさい。

 

ある美術館の大人ひとりの入場料は1500円、子供ひとりの入場料は600円です。大人と子供合計18人でその美術館を訪れたところ、入場料の合計は13500円でした。美術館を訪れた大人と子供それぞれの人数を求めなさい。

 

兄が家を出て分速40mで駅に向かい、兄が出発した15分後に忘れ物に気づいた弟が兄を追いかけるために分速140mで家を出ました。弟が兄に追いつくのは弟が家を出て何分後か求めなさい。

 

えとせとら。

これが、同じ単元の中で出てくる。というか、ワークブックの同じ見開きページの中で次々と出てくる。

文字式は色々な場面で使える。未知の変数を文字として置いて、わかる数字からその変数の数値を明らかにすることができる。さまざまな場面を想定した問題が、それを知らしめる練習にいいことはわかる。

このワークブックも、それはもう様々な趣向を凝らして文字式を使う練習をさせてくれる。というか教科書の時点でそういう作りになっている。

それを解く生徒は、問題ごとに問題を読んで、分からなければいけない。

ネイティブにとっても、理解度によっては問題のひとつひとつに「どういうこと?」と一旦立ち止まる必要がある人もいるだろう。というか、それを考えさせる問題だ。みんなが「はいはい」と、さっさと問いてしまうわけではないだろう。いわんやノンネイティブをや。

「代金」?「面積」?「入場料」?「分速」?

自分が見ている生徒は全部にハテナがつくことはないようだが、同じ単元でどれだけの生徒がどれだけのハテナを浮かべていることだろうか。そしてそれは、問題作成者が狙ったところでの停止ではないだろう。

確かに抽象的な概念の言語化(説明)は難しい。ただ、身近な例を含んだ具体的な話になれば分かりやすくなるだろう、というわけでもなさそうだ。もちろんすべての単元がこうなっているわけではないだろうが、とはいえ……。

と、教科学習の日本語の落とし穴のようなものを感じた気がして、ワークブックの見開きを見つめて固まってしまった。

 

コロナ後の日本語教育について

かつての、いわゆるガラケーを使ったメールの話は同世代の間でだいぶ盛り上がる。「Re:Re:Re:Re:Re:の話」、「センター問い合わせの話」、「アドレス変更のお知らせメールにはだいたい1~2通くらいMailer Daemonで戻ってくる話」、などなど。

この「同世代の間で」というところが味噌で、世代が少しズレると感覚がズレてしまう。自分はポケベルを触ったこともなければ多分生で見たこともないので、ポケベルの思い出話というものが全くわからない。反対に、自分のガラケーメールの思い出もLINEネイティヴ世代には全然わからないだろう。

 

現下起こっている大騒ぎが与える影響は、それぞれのサービスの趨勢に留まりそうにない。まあ間違いなく、社会(世界)において、あらゆる活動そのものの持つ価値に何かしらの変革が起こることだろう。そしてそれは間違いなく、日本語(外国語)学習にも関わってくる。はずだ。*1

これからの日本語教育を考えましょう!といった時に、これまでの延長線で考えることも大事なのかもしれないが、大きく価値観をひっくり返すところから考えることも必須になるんだろうと思う。 「日本語を紙に書くこと」、「『教室』というものがあること」、「先生と実際に会うこと」、などなど。そういう話を聞いて、ポケベルの思い出話を聞くLINE世代みたいな顔をする世代も出てくることだろう。

書いていてわかりにくくなった。「紙に書くことがアリかナシか」とかいうミクロな話ではなく、もっともっと大きな、「オンラインでできること」の広がりとか、「世界的なコミュニケーションの(一層の)気軽さ」とか、そういうマクロレベルの価値観が変わるだろうなという話。その結果というか流れとして、それじゃあ書く活動はどうなる、みたいなミクロな話に繋がるとは思いますが。

 

それは単にこの騒ぎの後に生まれたかどうかではなく、おそらくもっと上の、今小学生(中学生も?)の世代くらいからはそういった、変革後の価値観が強いものと捉えていいんじゃないかなと思う。(アメリカに住んでいたわけではないとしても)(そして今回の話とは比較対象として少しズレている気はするが)アメリカの同時多発テロ前後の社会情勢の違いは、当時7歳かそこらだった自分にはわからない。そう考えると、「コロナ後ネイティヴ」と対面するのは、そう遠い未来の話でもなさそうだ。

  

これからの社会はどう変わっていくか?それすらまだちょっとよくわからないところがあるので考えにくい問題だとは思う。ただ、考えにくいことが考えないことの理由にはならない。むしろ、自分が変えるんだよ!くらいの気概を出さないといけないのかもしれない。日本語教育について考えるために、社会(世界)について考えなければならない。日本語教育にかじりついていたい人間として。

 

なんて大言で壮語な感じになってしまったわけですが、目下の目標は修論の完成。みなさまもご自愛下さいませ。

*1:この騒ぎがなくったって起こっていたとは思いますが。ブーストが掛かるといった感じでしょうか

日記(2020年2月10日)

日記をつけてみることにした。

 

2/10(月)

午後にアルバイトに行く以外の用事はない日。やることはある。7時に起きて、起きるつもりだったが2度寝。そこそこの強度の悪夢を見て8時過ぎに陰鬱な気分で目を覚ます。落ち込んでいたらそのまま寝てしまい、10時に起きる。

陽光がカーテンにぶつかっているのを感じる。ぎりぎり暖房をつけなくてもいいかな、となるくらいの温度。

課題・頼まれごと・メール・etc.を片付けていくうちに時間が削れていく。合わせて2月3月の予定の整理をしていたが、いよいよ脳みその容量を超えてきそうだったので脳内からカレンダーに情報を移す。カレンダーは母親の手作り。1月分は日の目を見ることがなかった。もうしわけない。

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大学へ。授業にお邪魔して実習させてもらう、という実習をやっていたのだが、担当したクラスの学生が学期末に先生方にプレゼントを配ったそうで、自分の分もあったらしい。実習担当の先生が預かってくれたものを受け取りに行く。嬉しい。

バイト先へ。車では携帯から音楽・ラジオを流しているが、今日は携帯を家に忘れてきたので音楽の代わりにTVをつける。再放送で『科捜研の女』。午後の車でドラマの再放送というのは実家で母親と出かける時のスタイル。懐かしいとも違う、なんだか「こなれた」感覚になる。

バイト先。合間に『日本語教育の過去・現在・未来 第3巻 「教室」』(2009年、凡人社)を読む。小林ミナ「教室活動と『リアリティー』」が面白かった。「いちおしのロールプレイ」の話。自分ではいい感じで、学習者のやってる様子もいい感じなんだけど、引いて見るとツッコミどころは盛りだくさんというもの。なまじ学習者が楽しそうだからいいじゃん、と見えにくくなる、というか問題点を見たくなくなるのはなんとなくわかる。とはいえ結局はそこを超えていくのが本当に「学習者のため」だよね……と、最近の自分の授業実習を思い返してしまう。

あとがきの「30年後の日本語教育」という表現に勝手にエモくなってしまったが、刊行は2009年。もう10年以上経っている。あと20年経つ頃にこれを読んだらどういう感想を抱くんだろう。変わってることを望む。

 

帰って晩ごはん。塩焼きそば。課題をすすめて、日付が変わる前に寝る。つもりだった。課題が間延びして結局12時過ぎ。