日暮れ、道遠し

つくばで日本語教育をやっている大学院生の、見たこと聞いたこと考えたことなどについて。

コロナ後の日本語教育について

かつての、いわゆるガラケーを使ったメールの話は同世代の間でだいぶ盛り上がる。「Re:Re:Re:Re:Re:の話」、「センター問い合わせの話」、「アドレス変更のお知らせメールにはだいたい1~2通くらいMailer Daemonで戻ってくる話」、などなど。

この「同世代の間で」というところが味噌で、世代が少しズレると感覚がズレてしまう。自分はポケベルを触ったこともなければ多分生で見たこともないので、ポケベルの思い出話というものが全くわからない。反対に、自分のガラケーメールの思い出もLINEネイティヴ世代には全然わからないだろう。

 

現下起こっている大騒ぎが与える影響は、それぞれのサービスの趨勢に留まりそうにない。まあ間違いなく、社会(世界)において、あらゆる活動そのものの持つ価値に何かしらの変革が起こることだろう。そしてそれは間違いなく、日本語(外国語)学習にも関わってくる。はずだ。*1

これからの日本語教育を考えましょう!といった時に、これまでの延長線で考えることも大事なのかもしれないが、大きく価値観をひっくり返すところから考えることも必須になるんだろうと思う。 「日本語を紙に書くこと」、「『教室』というものがあること」、「先生と実際に会うこと」、などなど。そういう話を聞いて、ポケベルの思い出話を聞くLINE世代みたいな顔をする世代も出てくることだろう。

書いていてわかりにくくなった。「紙に書くことがアリかナシか」とかいうミクロな話ではなく、もっともっと大きな、「オンラインでできること」の広がりとか、「世界的なコミュニケーションの(一層の)気軽さ」とか、そういうマクロレベルの価値観が変わるだろうなという話。その結果というか流れとして、それじゃあ書く活動はどうなる、みたいなミクロな話に繋がるとは思いますが。

 

それは単にこの騒ぎの後に生まれたかどうかではなく、おそらくもっと上の、今小学生(中学生も?)の世代くらいからはそういった、変革後の価値観が強いものと捉えていいんじゃないかなと思う。(アメリカに住んでいたわけではないとしても)(そして今回の話とは比較対象として少しズレている気はするが)アメリカの同時多発テロ前後の社会情勢の違いは、当時7歳かそこらだった自分にはわからない。そう考えると、「コロナ後ネイティヴ」と対面するのは、そう遠い未来の話でもなさそうだ。

  

これからの社会はどう変わっていくか?それすらまだちょっとよくわからないところがあるので考えにくい問題だとは思う。ただ、考えにくいことが考えないことの理由にはならない。むしろ、自分が変えるんだよ!くらいの気概を出さないといけないのかもしれない。日本語教育について考えるために、社会(世界)について考えなければならない。日本語教育にかじりついていたい人間として。

 

なんて大言で壮語な感じになってしまったわけですが、目下の目標は修論の完成。みなさまもご自愛下さいませ。

*1:この騒ぎがなくったって起こっていたとは思いますが。ブーストが掛かるといった感じでしょうか