日暮れ、道遠し

つくばで日本語教育をやっている大学院生の、見たこと聞いたこと考えたことなどについて。

協力を得る、ということ

いつものように大学へ。最近は晴れていても空気がさっぱりとしており、すこぶる気分がいい。

構内に入る手前、いつもは何もないはずのところに立て看板があった。見慣れない言葉が目に飛び込んでくる。

慰霊式

 

……?

 

「慰霊」(「慰霊の日」とか)と言うと、戦争とか災害とか特殊でネガティヴ寄りなイベントにまつわるもののイメージだけど、今?ここ(大学)で……?

と、もやっとしつつ構内に入ったところでもう少し大きな立て看板があり、詳細がわかった。

篤志解剖体慰霊式』。大学の医学群に、献体をした方の慰霊式。

腑に落ちた。時期はともかく、なぜここで、という点は納得がいった。それでも、物珍しさというか、普段よく接しない概念に触れた落ち着かなさのようなものがある。

用事のあった場所がその近くだったため、ちら、と受付くらいは見られたが、なんだかお葬式のような雰囲気。「ご遺族様」とか書いてある。確かに、亡くなった人がいるということは、送る人もいるだろう。医学群の人だけでの「ありがとうございました。安らかに」というイベントとは少し違うんだ、と思った。もちろん生前の本人の意志があってのことだとは思うが、どういう気持ちで送るんだろうか。など、色々と考えてしまう。

 

解剖実習。漫画や小説などで触れたことはあるが、ぼんやりとしたイメージしかないので、少し調べてみた。

大学の医学部ごとに、献体について説明するページがあるようだ。筑波大も、色々と詳細に書いているものが見つかった。

医学教育実習のための解剖業務 - 筑波大学技術職員

実習スケジュールには、「心臓」と分かりやすいものもあれば、「翼突管」なんて、間違いなく人生で初めて聞いた単語もある。1ヶ月くらいかけて全身をくまなく見ていくらしい。そりゃあ、折角の機会だもんな。など思う。終わった頃にはどうなっているんだろうか。

 

医学の発展、医師教育のために解剖実習が必要なのは言うまでもないことだろう。「必要もないことを、わざわざ」ではない。

人が亡くなって、その体で実習、となるととんでもなくスペシャルなイベントのような印象を受ける(もちろん、献体を申し出てくれる方がいて実習ができるというのは本当に有難いことであるというのは承知しているが)。しかし、「研究のために協力を得る」という構図は、別に医学に限ったことではない。

日本語教育で、亡くなった人の身体を使わせていただくといったことはない(と言い切っていいと思う)。とはいえ、インタビューだったり、実験だったり、人の「力を借りる」ことはある。実践を通して教え方をより良くするのなら学習者の学習の機会もある意味で「犠牲に」なっているわけだし、何をお願いするにしても人の時間をいただくことになる。最近読んだ『[改訂版]日本語教育の歩き方』にも、そういう話があった。

もちろん謝礼などで本人にそのお返しをすることはできるが、それでもやはりその前にはまず「お願いして、協力してもらう」段階がある。

 

日本語教育研究も日本語教育研究で「やらなくてもいいことを、わざわざ」ではない。そこにはきちんとした意義があって、目的がある。はずだ。

ただ、そこで「研究というのは意義があるんです!だから協力を!」と当然の前提とするのではなくて、あらためてきちんと自分でその意義を考えないといけないな、とも思った。なんで自分は、その研究をするんだろうか。それも、誠意だろう。

 

週末にはまた大きな台風が控えているようです、みなさまどうぞお気をつけて。

 

追記

献体について調べて出てきたNHK特集です。

www.nhk.or.jp